世界の秘密

 (71~80)



 

 71.角大師の護符


現在、コロナの感染拡大が全世界で続いており、小康状態だった日本もついに第6波に突入しつつあるようです。

そこで今回は、コロナの終息を祈って、疫病退散の霊験があるとされる護符をご紹介しましょう。


疫病退散の護符:角大師像
【角大師像】 (『元三大師御鬮判断諸抄』(出雲寺文治郎:1895年刊)より)

この絵は、『元三大師御鬮判断諸抄』(出雲寺文治郎:1895年刊)という本に掲載されている角大師(つのだいし)像ですが、この本は古い書体で書かれていて読みにくいので、『天台宗読本 宗史篇』(硲慈弘:著、宗務庁教学部:1939年刊)という本に書かれている内容をご紹介します。

それによると、元三大師(がんざんだいし)は、天台宗中興の祖とされる良源(りょうげん)のことで、延喜十二年(西暦912年)に生まれ、康保三年(西暦966年)に天台座主となり、その後、大僧正という僧侶として最高の位階に昇った偉人で、寛和元年(西暦985年)の正月三日に亡くなったので元三大師と尊称されるようになったそうです。

そして、元三大師の偉大な人格と稀代の功績によって、魔除けの大師として特異な信仰が生まれ、元三大師を描いた魔除けの護符がひろく民家の門戸に貼られるようになったそうです。

なお、元三大師が鬼の姿をしている理由ですが、天台宗が配布している角大師像には次のような説明が書かれています。

「永観二年(九八四年)、世に疫病が蔓延した折、慈恵大師良源の元へ疫病神が現れる。大師は避け得ぬ因縁と悟り、疫病神を自らの左手の小指に憑かせると、激痛に苦しむも法力をもってこれを退散させた。そして、大師は鏡に向かい念仏三昧に入ると、鏡には鬼の姿が映った。大師は弟子に鏡に映った鬼の姿を描き写させ、それを版木に起こして札を作り大師自ら加持祈祷をした。その札を戸口に貼ると病魔や厄災を退けるとして、家々に配ったところ、その家の者は病に侵されず、病気の者も平癒したという。」

つまり、角大師像は、疫病神を退けた元三大師の想念が鬼の姿となって具現化したもので、この像を家の門や戸口に貼れば、病魔も恐れて逃げ出すほどの強力な護符となるようです。

ところで、最初にご紹介した『元三大師御鬮判断諸抄』の御鬮は「みくじ」と読み、おみくじのことですが、天台宗のホームページによると、元三大師はおみくじの考案者だそうです。おみくじの起源が、神道ではなく仏教にあったというのは意外ですね。 (2022年1月12日)



 

 72.災難除けの護符


前回、角大師の魔除けの護符をご紹介したので、今回は災難除け、あるいは砲弾除けとして民間に信仰されている護符をご紹介しましょう。


災難除けの護符
【災難除けの護符】

①の出典は『日本宗教史』(土屋詮教:講述、早稲田大学出版部:1900年刊)で、江戸時代には、疫病の禁厭(きんえん=まじない)として、この四文字を白紙に書いて門扉に貼りつける風習があったそうです。

②の出典は『神秘鬼没虚術自在 魔法の奥の手』(秘術研究館:編、千代田出版部:1917年刊)で、砲弾除けの妙術として、この四文字を書いて、充分に下腹に力を入れ満腔の心力を集注し、「らん」と一声叫びそのとき吐き出す息をこの護符に吹きかけることが紹介されています。

③の出典は『万呪秘法』(椎尾定吉:編、己羊社:1920年刊)で、すべて身を害(そこな)うことを免れたいと思うなら、この四文字を着物の襟に縫い込んでおくとよいそうです。

④の出典は『即座活用 空手護身秘術』(武揚軒健斎:著、青文堂書房:1921年刊)で、砲弾除けとして、この四文字を書いて、充分に下腹に力を入れ満腔の心力を集注し、「ウン」と一声叫びそのとき吐き出した気息をこの護符に吹きかけるとよいそうです。

⑤の出典は『幽冥界研究資料 第二巻』(岡田建文:編、天行居:1926年刊)で、「元禄宝永珍話」という本に書かれていることが次のように紹介されています。

ある弓の名人が、鶴を射たがあたらなかったので、その鶴を追いかけてついに捕らえたところ、羽にこの四文字が書かれていたので、これは矢丸を免れる呪文であろうと思い、自身もこの字を災難除けのお守りにして一生涯無事安穏にくらしたそうです。

また、天明五年(西暦1785年)、将軍家の御小姓新見長門守が、田安門外の中が淵へ馬と共に落下した際に、この文字を肌につけていたため怪我をしなかったので、将軍がこのことを諸人へ広めよと命令を出したことがあったそうです。

⑥の出典は『神拝祭式 加持祈祷神伝』(柄沢照覚:著、神誠館:1926年刊)で、剣難砲弾除けの秘符に書かれている文字として紹介されていて、この秘符を身に着けていれば不時の災難を免れるそうです。

⑦の出典は『サムハラ信仰についての研究』(渡邉一弘:著、国立歴史民俗博物館研究報告 第174集:2012年3月刊)で、この論文では、この護符の歴史を調査し、例えば、田中富三郎という実業家が、昭和7年に「サムハラ信光会」を主宰し、この文字を刻んだ商品を多数販売して全国的に有名になったことなどが詳しく紹介されています。

⑧は私が知人から入手したもので、その人の父親がゼロ戦に搭乗する際に身に着けていたものだそうです。

これらを見比べると、起源は同一で、伝えられる間に伝言ゲームのように形が変化したのではないかと思われます。したがって、どれが正しいのか判断することは困難ですが、信じる心があれば、どれでも御守護をいただくことができるのかもしれませんね。 (2022年2月2日)




災難除けの護符2

   

【記事の追加】

別件で文献調査をしていたところ、『諸人心得 眼病論』(柿沼真一:著、島村利助:1883年刊)という本に、上記の護符に関連する左のような記事を偶然発見しました。

それによると、これは「災難除け妙符」という九文字の護符で、昔、中国より「ランブ」という鳥の尾に結び付けて飛ばしたものが長崎に飛来したと言い伝えられていたようですが、残念ながら詳細な情報は省略されていて、出典も明記されていませんでした。

しかし、この護符の4文字目から7文字目までが上記③とほぼ一致しており、護符そのものの情報量の多さから考えて、こちらがオリジナルである可能性が高いと思われます。

また、この護符には、人一切の怪我、災難、流行病、猛獣、毒虫、剣難を除ける効能があるとされていて、左の九文字を紙に書いて、常に衣服の襟(えり)に挟んでおいて、何か危険を逃れたと思うときには、その紙を川に流し、また新たに書いて襟に挟んでおくのだそうです。

したがって、今回のコロナのように、伝染病が大流行した場合には、護符を毎日交換する必要がありそうですね。

そう考えると、信心深い人は、自分が知らないうちに災難を逃れた可能性を考慮して、護符を毎日交換していたでしょうから、九文字も書くのが面倒になって、上記のような四文字の簡易バージョンが発生したのかもしれませんね。

なお、上記の四文字が何を意味するのかは不明のままですが、③に関しては「ケイシンケイコ」と読むらしいということが分かっただけでも、私としては非常にすっきりしました。

それにしても、今回の発見は本当に偶然で、これは、このホームページで様々な守護強化の方法をご紹介していたことに対する神様からのご褒美だったように思われます。(2022年6月9日)



 

 73.九字護身法


65.気合療法」でご紹介した濱口熊嶽師は、九字を切ることによって奇跡的な治療を行ないましたが、『九字護身法』(上村清左衛門:著、博文堂:1881年刊)という折本によると、九字は護身法としても使えるそうです。

この折本によると、九字は「身心堅固にし運力を増し、怨敵を退け、悪魔を払い、悪霊邪鬼狐狸妖怪を滅ぼし、総じて一切の厄難を除き、諸々の願望を成就円満なさしむる神術なり。」と説明されていて、どうやら万能の護身法ということのようです。


切紙九字
【切紙九字】 (『九字護身法』より)

   

そのやり方は、まず左の図に示す「切紙九字」(きりかみくじ)とよばれる印を手で結びます。

(ただし、この図だけでは分かりにくい部分もあるので、実際に修行する場合は熟練者に指導してもらうのが望ましいと思われます。)

なお、九字とは「臨、兵、闘、者、皆、陳、裂、在、前」という九文字の漢字のことで、各文字に対応する印には次のような名称がつけられています。

1.臨(りん):独古印(とくこのいん)

2.兵(ひょう):大金剛輪印(だいこんごういん)

3.闘(とう):外師子印(げじしのいん)

4.者(しゃ):内師子印(ないじしのいん)

5.皆(かい):外縛印(げばくのいん)

6.陳(ぢん):内縛印(ないばくのいん)

7.裂(れつ):智拳印(ちけんのいん)

8.在(ざい):日輪印(にちりんのいん)

9.前(ぜん):隠形印(おんぎょうのいん)

また、映画などを見ると、印を結ぶ際に九字を唱えていますが、この折本には九字を唱える必要があるとは書かれていませんでした。


次に、下の図に示すように刀印(とういん)を結び、左手は腰に置き、「臨、兵、闘、・・・」と九字を唱えながら右手で横、縦、横、・・・と切ります。


刀印九字
【刀印九字】 (『九字護身法』より)

この九字は、身を守る大秘法であり、軽々しく考えてはならないそうですから、念のために修行のやり方を書いておきます。

「毎朝手を洗い口をすすぎ、北に向かって濁気を吐き捨て、東に向かって口を開け、息を内に引き生気を吸い飲むこと三度、次に歯をたたくこと三十六度、気を下し心を安静にして、これを修すべし。」

また、正直潔白にして天道を恐れ、人道に背かず、家業を大切にし、偽りなくこの法を修行する人は必ず霊験が著しいそうですから、心構えや日頃の行ないにもご注意ください。 (2022年4月27日)



 

 74.観音力(かんのんりき)


ロシアのウクライナ侵攻から3か月が経過しましたが、戦いは長期化する様相を呈しており、もしプーチン大統領が「予言の解釈-4.ノストラダムスの予言」でご紹介した「第三の北方の王」であった場合、近い将来、世界は破滅的な状況に陥る可能性がありますから、今回も守護強化のための強力な方法をご紹介しましょう。

『観音経を語る』(岡本かの子:著、大東出版社:1942年刊)という本によると、法華経(ほけきょう)という仏教の有名な経典があって、そのなかの普門品(ふもんぼん)第二十五には、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を信仰することによって次のようなご利益が得られると書かれているそうです。

「若(も)し是(こ)の観世音菩薩の名を持する者あらんに、設(たと)ひ大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)はず。是の観世音菩薩の威神力(いじんりき)に因(よ)るが故に、若(もし)大水の漂はす所となるも、其(そ)の名号を称せば即ち浅き処(ところ)を得ん。」

つまり、観世音菩薩の名を唱えれば、たとえ燃え盛る火のなかに入っても焼かれず、大水に流されても浅い場所にたどり着くことができるというのです。

この観世音菩薩は、「真理の探究-1.般若心経」でご紹介した観自在菩薩(かんじざいぼさつ)のことで、人が「念彼観音力」(ねんぴかんのんりき=かの観音の力を念じること)を一心に行なえば、直ちにあらゆる苦難から救われることが約束されているそうです。

そして、実際に観音力によって救われた人は古来より無数にいて、例えば、平安時代末期に誕生した有名な今昔物語は、巻の六が全部この観音の霊験について書かれているそうですし、日蓮聖人が龍ノ口の難において処刑を免れたのも観音力によるとされています。

ただし、あまり古い話は信頼性に問題があるので、ここでは、近代の観世音菩薩の霊験が多数記録されている『観音の霊験』(中根環堂:著、有光社:1940年刊)という本のなかから、山田仙遊師という曹洞宗の布教師の事例をご紹介しましょう。

それによると、仙遊師は、昭和7年の旧正月1日(1932年2月6日)に、愛知県の知多半島と渥美半島のほぼ中間に位置する篠島という孤島に選挙応援に行くことになり、代議士候補の西脇晋氏を含む応援弁士18名と、土地の有志3名とともに、燕丸という発動汽船で島に向かいました。

彼らは、篠島に到着すると、島の二か所で応援演説を行ない、午後4時には演説がすべて終了して、午後6時に知多半島の師崎港に向けて出港したのですが、その途中、船の機関室から火災が発生し、小さい船の甲板を人々が右往左往する大騒動となったそうです。

しかし、仙遊師は落ち着いて座禅を組み、一心に観音経(法華経の普門品第二十五)を唱えたところ、不思議にも火災はすぐに鎮火したのですが、今度は機関室から浸水し、船が傾いた状態で漂流し始めたため、高い波に全員びしょぬれとなって沈没の恐怖を味わったそうです。

このとき、一心に観音経を唱えていた仙遊師は、観世音菩薩が出現する光景を見た後、みんなが着席すれば助かるという一種の暗示を得て、全員に座るように命じ、観音さまが出現されたので必ず助かると静かに説き、再び一心に観音経を唱えたところ、漂流して3時間後に船は篠島に漂着し、奇跡的に全員が助かったのだそうです。

この事例は、前述のご利益の典型のように思われますが、それでは、なぜ観世音菩薩にこれほどのご利益があるのでしょうか?

そのヒントになると思われるのが、『天之理』(安本房造:著、安本房造:1926年刊)という本に書かれている次のような神仏の関係です。なお、著者の安本房造氏は天理教の関係者です。


神と仏の関係
【神仏の関係】 (『天之理』より)

ここで、上段の八柱の神々は、「日本の霊性-15.人類創造」でご紹介した創造神と道具の神々であり、これらの神々が、様々な如来や菩薩などに姿を変えて人々を導いているとされます。

そして、右端の国常立尊が、「日本の霊性-14.国常立尊」でご紹介した創造神(月の大神)で、この神が観世音菩薩に姿を変えて人々を救っているというのが天理教の教えのようです。

確かに、もし観世音菩薩が創造神であれば、我が子である人類を救うのは当然ですし、どんな苦難のなかにある人であっても直ちに助けることが可能だと思われるのです。

そこで、観音力による守護を強化するため、延命十句観音経(えんめいじっくかんのんきょう)というお経をご紹介します。短いお経なので、暗記して常に唱えるようにすれば、素晴らしいご利益が得られるのではないでしょうか。


【延命十句観音経】

原 文 読 み 意 味
観世音 かんぜーおん 観音さま
南無佛 なーむーぶつ 仏(ほとけ)に帰依します
與佛有因 よーぶつうーいん 仏と因あり(人は仏になる素質を持っている)
與佛有縁 よーぶつうーえん 仏と縁あり(人は仏となるよう導かれている)
佛法僧縁 ぶっぽうそうえん 仏法僧は常楽我浄(=大涅槃)の縁である
 眼耳鼻舌身意の六識を滅する当体が常で、常の故に我、
 常・我あるが故に楽、従って浄と名づける(大般涅槃経)
常楽我浄 じょうらくがーじょう
朝念観世音 ちょうねんかんぜーおん 朝(あした)に観音さまを念じ
暮念観世音 ぼーねんかんぜーおん 暮(くれ)に観音さまを念じ
念念従心起 ねんねんじゅうしんき (観音さまを)念じ念じることが心より起こり
念念不離心 ねんねんふーりーしん (観音さまを)念じ念じることが心を離れない

ただし、このお経の意味は、『延命十句観音経講話』(原田祖岳:著、正信同愛会:1932年刊)や『真言宗聖典』(小林正盛:編、森江書店:1926年刊)、『新訳 大般涅槃経』(原田霊道:著、北斗書院:1936年刊)などを参考にして自分なりの解釈で書いてあるので、その点をご了承願います。 (2022年5月24日)



 

 75.死者蘇生の霊験


前回は仏教の話題だったので、今回は神道の霊験についてご紹介しましょう。

日本の霊性-7.天地金乃神」でご紹介した金光教では、死者が蘇生した奇跡が『みかげ集 第一輯』(大教新報社:1910年刊)という本に書かれています。

それによると、大阪市西区立売堀(いたちぼり)南通一丁目の中雄安次郎氏は、日頃から熱心に金光教を信仰していたそうですが、明治36年6月17日の午前9時頃に、中雄氏の3歳の娘が2階上の物干し場から転落し、軒の屋根瓦で頭を打ち、さらに井戸の周囲の敷石の上に転げ落ちてしまったそうです。

物音に驚いて両親が駆けつけると、娘は頭が割れて顔一面に血が流れ、全身が土色に変じて息が絶えていました。

中雄氏はこの有様に茫然自失となりましたが、周囲に人が集まって騒ぎになるなか、我に返ってすぐに家を飛び出し、近くの大阪教会所に駆けつけ、事の次第を教会長に口早に告げ、早速祈念をお願いしたのです。

それを聞いた教会長は、「お前そりゃ医師にかけねばいけぬぞ、信心は信心、治療は治療、信心と治療を同視してはなりませんぞ」と諭(さと)したのですが、中雄氏は、娘がすでに死んでいて医者では駄目であることを告げ、祈念が終わるまで帰ろうとしませんでした。

何を言っても中雄氏が聞き入れなかったので、教会長は祈念するとともに、請われるままに御神酒(おみき)を下げて与えました。

中雄氏はすぐに帰宅すると、まず娘の血を洗って傷口を調べ、そこに御神酒をつけ、次に口を開けて御神酒を十分注ぎ入れてやり、夫婦で力の限りに祈念に集中したところ、1分もしないうちに娘は息を吹き返して泣き出したそうです。

夫婦は非常に喜び、早速娘を連れて教会所に行き、お礼を申し上げるとともにさらなる祈念をお願いし、教会長が精神を集中して祈念したところ、今まで痛い痛いと泣いていた娘がスヤスヤと眠りについたので、その後も夫婦は余念なく祈念に集中し、午後4時頃に帰宅しました。

それから、娘は順調に回復して、翌日には普通に飲食して家の周囲を遊び歩くようになったので、町内の人々も驚きましたが、さらにその翌朝には頭の傷が治ってしまったので、信仰心に富むこの夫婦でさえ、あまりの奇跡に夢ではないかと半ば疑ったくらいだったそうです。

以前ご紹介したように、金光教のご祭神は、天地を支配し人類を創造した根源的な神さまですから、不可能なことなどないはずですが、それでも死んだ人間が生き返るというのはとても不思議なことであり、娘を救いたいと願う両親の強い思いがこの奇跡を引き起こしたのだと思われます。

ところで、『金光教大要』(金光教本部:編、金光教本部:1933年刊)という本によると、金光教の教祖さまは、「人は万物の霊長なれば、死したる後、神に祭られ神になる事を楽しみに信心せよ」と教えたそうです。

これは、死後、永遠の生命を得て、子孫によって祭られるときに、その守り神となって働くことが人生の理想であるという意味なのだそうですが、この言葉は、「真理の探究-15.人間の尊さ」でご紹介した「人より外に、神はない 人が神や」という神言と共通するものがあってとても興味深いですね。

そして、中雄氏夫妻は、信仰によって間接的に娘の命を救った存在であり、まさに娘の守り神となって働いたわけですから、この霊験は、人は死を待たなくても神になれるということを証明した事件だったように思われるのです。 (2022年6月24日)



 

 76.神字の護符


前回ご紹介した金光教では、「日柄方位は観るに及ばぬ」、「自分に都合のよい日が吉(よ)い日柄」、「使い勝手のよいのが吉い家相」などと教えていて、暦を使って日柄や方位の吉凶を占う迷信(六曜、九星、三隣亡など)を明確に否定しています。

したがって、仏滅や暗剣殺などはまったく気にする必要はないと思われますし、実際、気にしない人が増えているように感じますが、近年では恵方(えほう)というものが人気で、節分に恵方巻を食べる人も多いようなので、この迷信について少し説明しておきましょう。

『運命判断 占とまじないの秘法』(如舟堂主人:著、忠文館書店:1934年刊)という本によると、天竺の北にある九相国に、牛頭天王という王様とその妻、および八人の王子がいて、妻の別名は歳徳神(としとくじん)、王子たちは八将軍とよばれたそうです。

そして、歳徳神は年とともに方位をめぐり、この神がいる方位は、あらゆる福が集まり禍(わざわい)が除かれる吉方とされたため、これを恵方と称し、この本が書かれた当時(昭和9年)には、年の元日にこの方位の神社に詣でてその年の吉運を祈る恵方参りが一般的だったそうです。

ちなみに、今年の恵方は、2022年が壬寅(みずのえとら)の年なので、壬(みずのえ=水の兄)の方角、すなわち北ですが、これは五行(ごぎょう=木火土金水)の水が北に配当されているためです。(ただし、来年は癸(みずのと=水の弟)ですが、恵方は南です。)

なお、厳密には、恵方は北から15度西にずれているそうなので、北北西(北から22.5度西)よりやや北寄りとなるのですが、このような識別困難な方位を問題にすることこそが、恵方が迷信である証拠でしょう。

ところで、この『運命判断 占とまじないの秘法』には、巻頭に神字の護符というものが描かれているのですが、これらの文字から不思議な力を感じるので、その一例として国狭槌尊(くにさづちのみこと)の神字をご覧ください。


国狭槌尊の神字
【国狭槌尊の神字】 (『運命判断 占とまじないの秘法』より)

気功の心得のある人なら、この文字に手をかざすと手がピリピリすると思いますが、これは「不思議コラム-68.プラーナ療法」でご紹介したプラーナがこの文字から放射されているということを意味します。

プラーナは、現代風に言えば「生命エネルギー」であり、人体だけでなく大樹や岩、特定の絵画や写真などからも出ているので、文字からプラーナが出ていても不思議ではないのですが、一つの文字からこれほど強力なプラーナを感じたことは私にとって初めての経験であり、本当に驚きました。

この本には、迷信と思われるようなことが多数収録されていて、著者名も本名ではないため、最初は読む価値のない本かと思ったのですが、この神字が放つ力は本物なので、こういった護符の存在をお伝えすることには意味があると信じて、ここにご紹介させていただきました。

なお、この神字は丑年・亥年生まれの人の護符だそうなので、それ以外の生まれ年の人の場合は、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトにアクセスして『運命判断 占とまじないの秘法』を検索してご覧になり、ご自分の生まれ年の神字を探してみてください。 (2022年7月24日)



 

 77.寅吉の護符


江戸時代後期に、天狗小僧として江戸市中の評判になった少年・寅吉(とらきち)については、このホームページでも「日本の霊性-2.天孫降臨」や「真理の探究-13.守護強化と願望成就」で簡単に触れてきましたが、彼の物語は非常に興味深いのでここで詳しくご紹介しましょう。

『寅吉物語 上』(心霊科学研究会:1923年刊)という本によると、寅吉は、江戸下谷七軒町に住むタバコ商の越中屋與總次郎(よそじろう)という人の次男で、文政三年(西暦1820年)に数えで十五歳だったのですが、外見はもっと若かったそうです。

なお、下谷(したや)は現在の東京都台東区の西部(台東区は西の下谷区と東の浅草区が戦後に合併したもの)、七軒町は現在の池之端2丁目(不忍池の北西)になります。参考までに、上野・不忍池周辺の古地図(1909年版)をご覧ください。


上野の古地図
【上野の古地図】 (『携帯番地入東京區分地圖』(伊藤正之助:著、新美社:1909年刊)より)

寅吉は、幼い頃から未来の火事を透視したり事故を予言する超能力がありましたが、七歳のときに小さな壺に入って飛行する不思議な老人に出会ったことがきっかけで、それから十五歳までの9年間、茨城県の愛宕山(あたごやま=JR常磐線岩間駅の西約2km)などで様々な修行を積んだそうです。

寅吉を指導したのは山人(さんじん)の頭領で、山人とは、天狗よりは一段上位の存在で、数百歳の寿命を保ち、空中を自在に飛行することができる仙人のような人たちですが、厳密には仙人とは異なり、山人は神道の修業に励み、上位の神(金毘羅様)に仕えていたそうです。

寅吉が修行を開始した当初は、山人が毎日寅吉を修行場まで送り迎えしてくれたのですが、そのうち修行場に長期間滞在することも多くなり、十一歳の十月までは主に愛宕山で過ごし、それ以降は実家に戻り、師匠がときどき寅吉を訪問して教えてくれたそうです。

寅吉は、実家に戻ってからは、師匠の指示で仏教の勉強をするため、近所にある臨済宗の正慶寺や日蓮宗の覚性寺の小僧になり、最後は剃髪して日蓮宗の宗源寺(場所は現在の杉並区)に弟子入りしたそうです。

また、文政二年(十四歳)の五月二十五日からは、師匠に連れられて、空中飛行によって東海道の名山旧蹟を巡り、伊勢の内宮・外宮に参拝した後、西国の山々を見回り、九月から十一月初めまでは北陸諸国をかけ巡り、その後、見知らぬ山里に放置され、親切な老僧の世話で白石丈之進という神道家に弟子入りして白石平馬と名乗ったそうです。

寅吉が白石家で神道の修業に専念していたところ、翌年の三月上旬に兄弟子が迎えに来てくれたので、彼は愛宕山に戻り、三月二十八日には久しぶりに我が家に帰宅したのですが、仏教を信仰する家族と言い争いが絶えず、七月から商家へ奉公に出されたことがきっかけで、十月十一日に国学者の平田篤胤翁と面会することになりました。

平田翁は、神道の大家であり、神仙界の事情にも詳しかったので、寅吉が語る山人たちの生活や修行の様子が非常に具体的であることにすっかり感心してしまいましたが、特に驚いたのは、寅吉が空気銃の構造を説明したことだったそうです。

また、彼が翌日に再び平田家を訪問した際、隣家の柿の木に仕掛けられた鳥もちに野鳥が掛かり、門人たちが騒いでいたところ、寅吉が呪文を唱えながら茶碗に注がれた水を指先ではじく動作を数回繰り返すと、野鳥が鳥もちから離れて下に落ち、しばらく羽繕いをしてから飛び去るということがあったそうです。

これ以外にも、風を吹かせたり、天気を当てたりする奇跡を目の当たりにした平田翁は、最終的に寅吉を自宅に引き取って、この少年について詳しく研究することになりました。

寅吉は、生来の野生児で、庭へ飛び出して草木をへし折り、泥足のまま座敷に駆け上がり、襖(ふすま)や障子を破り、天井板を打ち貫き、誰彼構わず際限なく相撲を挑むといったことを繰り返していましたが、平田翁は思うところがあってこれを放置し、やりたいようにさせていたそうです。

そして、平田翁は寅吉の物語を『仙境異聞』という本にまとめ、これが江戸中の評判となったわけですが、これに先立って『平児代答』(山崎美成:著、文政三年刊)という本が出されていて、そこに寅吉が伝えた災難除けの護符が書かれているのでご紹介しましょう。


寅吉の護符
【寅吉の護符】 (『平児代答』より)

これは、木の板を剣の形に切って雌雄二本を用意し、それぞれの表裏にこの図のとおりに文字を描いて護符とするもので、この二本の木剣を常に所持すれば、災難を免れ、狐憑きにも有効なのだそうです。

この護符には、神代文字のようなものも書かれていて、意味を理解することはできませんが、寅吉が実在の人物であることは間違いないので、これは実用的な護符として、また、山人界の研究資料として、とても貴重なものなのではないでしょうか? (2022年8月24日)



 

 78.神仙界の護符


前々回、国狭槌尊の神字の護符をご紹介しましたが、これと同じものが『天帝尊星霊符秘密集伝』(藤崎孝教:著、天皇館:1910年刊)という本に載っていて、異なる説明がされていたので、参考までにこちらもご紹介しておきます。

それによると、古来中国には神仙界から伝授された霊符が存在していて、日本にも339の霊符が伝来し、その秘伝の継承者である著者の藤崎孝教氏は、彼の信徒29名が日清戦争に、32名が日露戦争にそれぞれ出征従軍した際にそれらを持たせ、全員無傷で生還するという霊験が実際にあったそうです。

そして、『運命判断 占とまじないの秘法』において国狭槌尊の神字とされていたものが、この本では巨門星御秘符という名称で次のように説明されています。


巨門星御秘符
【巨門星御秘符】 (『天帝尊星霊符秘密集伝』より)

これを見ると、「白紙に(ラ)にて書写し」と書かれていますが、この(ラ)は秘伝のため公開されていません。ただし、『天下無比福寿必得 鎮宅霊符神』(金華山人:編、瑞祥書院:1912年刊)という本に同じ護符が紹介されていて、白紙に朱書きすることが明記されているので、(ラ)は朱のことだと思われます。

 

また、巨門星とは、『新纂仏像図鑑 天之巻』(国訳秘密儀軌編纂局:編、仏教珍籍刊行会:1930年刊)という本によると、北斗七星を構成する七つの星の一つで、次の図に示すように、それぞれの星には名前と生まれ年が割り当てられています。


北斗七星を構成する星々の名称
【北斗七星を構成する星々の名称】 (『新纂仏像図鑑 天之巻』より)

なお、この図はなぜか左右が逆に描かれていて、少し注意が必要ですが、破軍星がひしゃくの柄の左端の星であることは間違いないので、巨門星はひしゃくの底の右側の星ということになります。

北斗七星は、古くから信仰の対象とされていて、仏教では北斗菩薩または妙見菩薩として、道教では北斗神君として崇拝されていました。しかも、道教では仙人から霊符を授かった話が数多く伝わっていますから、この巨門星御秘符は道教由来、すなわち神仙界から伝授されたものと考えるのが妥当なようです。

また、これが『運命判断 占とまじないの秘法』において国狭槌尊の神字とされた理由ですが、特に何の説明も書かれていないのであえて推測すると、本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ=神仏習合思想)の影響で、北斗七星にも日本の神々が割り当てられていたということはありうると思われます。

そして、道教の霊符は一般的に幾何学的な円や直線を含むことが多いのに対して、巨門星をはじめとする北斗七星の七つの御秘符はほぼ曲線で構成されていて、神代文字の雰囲気を漂わせているので、伝承の過程でこれらが日本固有の神字とされたのかもしれません。

ところで、『天帝尊星霊符秘密集伝』には実に様々な霊符が載っていて、それらを見ていると興味が尽きないのですが、そのなかに天災・地災・人災の諸災難の憂いを除くとされる、ある意味最強ではないかと思われる護符を発見したので、よかったら参考にしてください。


災難除けの護符3
【天災地災人災除けの護符】 (『天帝尊星霊符秘密集伝』より)

図中の(ラ)は、前述のように朱のことですから、この図形を白紙に朱書きして持ち歩けばよいようです。また、カラープリンターをお持ちなら、画像ソフトでこの図形を朱色に修正してから印刷するのが簡単だと思います。 (2022年9月24日)



 

 79.坤元(こんげん)霊符


前回ご紹介した『天帝尊星霊符秘密集伝』には、秘法中の秘とされる正対化霊天真坤元十二霊符(以下、坤元霊符)が掲載されていて、例えば午年の人の坤元霊符は次のようになります。


鼠形の坤元霊符1
【鼠形の坤元霊符1】 (『天帝尊星霊符秘密集伝』より)

そして、この霊符の霊験は、二十八霊験(無病長寿、増位増官、福徳長栄、子孫連綿、出陣勝利、売買利潤、疫病不犯、諸難不起、牛馬除病、養蚕倍盛、旅行無難、船中安穏、山中無害、毒虫不螫、悪犬退去、怪異消滅、食中除害、災害不到、盗賊退散、五穀成熟、夫婦和合、居家安鎮、金銀積蔵、悪夢辟除、男女愛敬、諸芸得妙、諸運永久、所願皆達)が願わなくても成就するとされます。

ただし、唐紙に(ル)にて書くことの意味が不明なので、このままでは使えないのですが、『済世致富 坤元術』(岩本梓石:著、文永堂:1918年刊)という本に坤元霊符の真図と題するものが掲載されているのでご紹介します。


鼠形の坤元霊符2
【鼠形の坤元霊符2】 (『済世致富 坤元術』より)

はたしてこれが有効なのか確証はありませんが、よかったら参考にしてください。なお、午年以外の人は、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトにアクセスして『済世致富 坤元術』を検索してご覧になり、ご自分の生まれ年の坤元霊符を探してみてください。 (2022年10月24日)



 

 80.天罡(てんこう)三十六御秘符


世の中には、人間の理解を超えた因縁によって病気になることもあるようで、『力久辰三郎翁神告透視物語 神の不思議』(吉田直:著、吉田直:1920年刊)という本に次のようなことが書かれています。

それによると、力久辰三郎氏は、佐賀県久保田駅の南、大立野という有明海に面した淋しい漁村で生まれ育ち、この浜辺でとれた魚を仕入れて籠に入れ、天秤棒で担いで佐賀市や小城町(現在の小城市)を売り歩いて生計を立てていたそうです。

力久翁には若い頃から不思議な力があったのですが、ある時、小城町で毛布を腰に巻いたまま三味線を弾いている器量のよい若い娘を見かけ、不思議に思って家人に尋ねたところ、娘は足が不自由で立てないとのことでした。

そこで、彼は家人に生木(なまき)の怨呪(うらみ)であることを告げたところ、最初は笑って取り合ってもらえなかったそうですが、調べてみると、その娘の親が裏山の大神木を切り倒して百姓の鋤の柄にしていたことが判明し、力久翁の指図通り、神木として樫の苗を植えたところ、娘の病気は全快したのだそうです。

この件によって力久翁は有名になり、病気に苦しむ多くの人を救ったのですが、新聞記事になった事件を一つご紹介すると、ある人が、家族に病人が多いことを力久翁に相談したところ、依頼者の家に所蔵されている剣が原因であると透視されたそうです。

そこで、依頼者が自宅を捜索したところ、指摘された剣類を発見して部落中の大評判となり、その後の調査で、依頼者の父親が二十数年前に小城郡西多久の八幡岳より発掘したものであることが判明したのだそうです。(西肥日報:大正四年十月一日)

このように、身に覚えのないことが原因で不幸になることもあるようなので、問題点を透視してくれる人がいない場合でも何とかやっていけるように、前回ご紹介した『天帝尊星霊符秘密集伝』から、天罡三十六御秘符とよばれる護符をいくつかご紹介しましょう。

ちなみに、前々回ご紹介した「天災地災人災除けの護符」も天罡三十六御秘符の一つであり、残りの御秘符もすべて白紙に朱書きすることが明記されているので、今回はあらかじめ朱色に修正した図を掲載しています。

また、『天命理数造化之枢機 三巻』(山岸乾順:著、矢島誠進堂書店:1921年刊)という本によると、天罡とは「天の凶猛殺神の名称」のことであり、『宅方明鑑 巻之下』(平澤白翁:述、松恵堂:1891年刊)という本によると、天罡星とは「破軍星」のことで、「神威勇猛」と書かれているので、この神の護符を身に着けることによって強力な守護を得られるのだと思われます。

【天罡三十六御秘符の一部】


◆三光百霊の祟罰を除き無難なる御秘符
天罡三十六御秘符1

   

◆土神鎮護して家門繁昌子孫長久の御神符
天罡三十六御秘符17

◆病魔を退け一切悪病の難を除く御神符
天罡三十六御秘符27

   

◆悪魔鬼神邪気を払い妖怪の憂い無き御真符
天罡三十六御秘符28

◆生霊死霊邪気等の禍を払い安泰成る御秘符
天罡三十六御秘符30

   

◆諸々の呪詛調伏毒害の禍を除き安穏成る御神符
天罡三十六御秘符32

上段左の三光は、日・月・星の三つの光のことで、おそらく天の神々を意味していると思われますから、三光百霊の祟罰(すいばつ=祟りと罰)とは、天の神々や様々な霊によってもたらされる不幸のことだと思われます。

また、上段右の土神は、住んでいる土地の神様のことで、すべての人は土地の神様の守護を受けてはじめて繁栄できるということだと思われます。(中段と下段は読めば分かると思われるので、説明は省略します。)

最後に、これまでご紹介してきた護符を使用する場合は、護符に対して敬意を払うことを忘れないようにし、くれぐれも無礼な取り扱いがないようご注意ください。 (2022年11月24日)



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